海の恵みのTreasure box

日本の周囲を取り囲む海は,世界的にも有数の豊かな海であり,漁業や産業,海岸地域の生活,魚食文化を支えてきました。しかし近年,魚が獲れなくなった,魚を獲っても儲からなくなった,漁業の後継者がいない,という声を各地で耳にします。日本の豊かな海の恵みを「宝の持ち腐れ」とすることなく,持続的に享受するためには何が必要か考えてみたいと思います。

水産資源の特徴

魚貝類などの海から得られる水産物には,ユニークな特徴がいくつかあります。第一の特徴は,自律再生産資源であるということです。人間が魚を漁獲したあと,何も手を加えず放ったらかしておいても,海の中で親は卵や子を産み,子は天然の餌を食べて育ち(捕食者に食べられたり病気で死んでしまうものもいるでしょうが)年月が経てば自然に増えて回復します。従って,親を取り尽くさないで海に残しておけば,その自然な増分を人間が持続的に利用することができるのです。このような自然の産物でありながら,小売店やスーパーマーケットで日常的に大量販売される食品は他にほとんど例がありません。野菜,穀物,果物,畜肉の大部分は,種苗生産から育成・収穫まで人が世話をし続けます。色々考えたのですが,匹敵するものが他にあるとすればタケノコくらいでしょうか(季節商品ですが)。

 

第二の特徴は,基本的に海の中で生きる魚介類は無主物である,という点です。田畑や獣舎で育てられている農畜産物は,当然その場所の持ち主の所有物ですが,自然の魚介類は,漁場が協同組合によって管理されていることはあっても,そこにいる魚が誰のものであるか,漁獲されるまで定まりません。この第二の特徴は,有名な「コモンズ(共有地)の悲劇」のような獲り過ぎを引き起こす原因でもあります。目の前の海の中にいる魚を,いま自分が獲らなければ他人の物(収益)になってしまうという不安が,適切な量の親魚を残そうとする気持ちを押しのけてしまうからです。

 

第三の特徴として,海の中にどれだけ魚介類がいるか,陸上哺乳類である我々人間には把握しにくい,という点も挙げられます。この点はタケノコと魚の大きな違いです。多くの場合,魚を獲ってみて初めて,魚がどれくらいるか見当がつく,という事後承諾的な確認になります。獲った後も海に残る魚の量を正確に推定することは難しいため,予想が外れたり,ついつい獲り過ぎてしまった(ことに後で気付いた)り,といったことが起こりがちです。

これまでの漁業管理の問題点

今まで天然の水産物の管理は,マダイ,アジ,マグロ…などそれぞれの魚種ごとに最大の生産量が得られるように残す親の量を決める,最大持続生産量(MSY)を基本原理としていました。実際には各魚種の間に食う食われるの関係があったり,餌や住み場所をめぐる競争があったり,共通の捕食者がいたりして,複雑な海の生態系ができあがっています。また,気候変動や海岸や海底の工事,海洋汚染などによって環境は変動していまが,そのような複雑な関係や変動は無視して,餌の量やすみ場所の質,自然死亡率は一定であると仮定するのがMSY管理の基本です。

 

また,漁業を通じて収穫され水揚げされる魚介類だけでなく,他の生物が意図されず漁具にかかる混獲が発生し,そのまま海に投棄されるものも少なくありません。こうした混獲や投棄も海の生態系を変化させる要因ですが,今までほとんどデータが収集されることはありませんでした。混獲物は無駄なもの,邪魔なものと見なされ,有益な食料資源である水産物をより効率良く収穫することこそが,水産業の第一目的となってきたのです。

 

しかし,長年にわたり魚を獲る人が減り,獲る魚の量も減っているのに「昔に比べ魚が獲れなくなった」「海に魚がいない」という状況が蔓延しています。反漁業キャンペーンの急先鋒であったカナダ人研究者Daniel Paulyがセンセーショナルに提唱したフィッシングダウン説(漁業は高価な大型魚から順に取り尽くし,海には小魚とクラゲしか残っていない)のように極端な状態にはなっていない筈ですが,過去から現在に至る日本周辺の海の生態系の変化をたどり,現在の状態が望ましいものであるかどうかオープンに議論する必要があります。

利用する側にも問題が!

海と水産物をめぐる問題は魚を獲る人だけの責任ではありません。水揚げされた魚を買う人,売る人,加工する人,そして食べる人も問題の一因を担っています。端的に言うと,流通消費サイドが,水産物を「より安く,大量に,安定して」求めるニーズが,生産側を非持続的な生産へ向かわせる拍車となっています。

 

マグロがワシントン条約の付属書に掲載されそうになると「マグロ丼が食べられなくなると困る」「回転寿司でトロが食べられなくなる」という町の声がしばしばニュースで流れます。しかし,海の生態系の頂点捕食者(単純に例えると陸上生態系におけるライオンやオオカミやイヌワシのようなものだと思ってください)であるマグロが,ワンコインで大量消費されている現実の方がおかしいのです。

 

しかも,今や魚の小売りは大手スーパーが中心となっているため,畜肉と同じように,いつ売り場に行っても同じ品質のものが同じ値段で並ぶことが求められます。水産物は年によって季節によって獲れる量や種類が変わる天然食材ですが,流通側の都合が生産者へのプレッシャーとなり,沢山獲れても,少量しか獲れなくても値段が安いまま変わらない「価格の硬直化」を引き起こしています。

 

 戦中戦後の食糧難時代を生き抜いた私の親世代の人たちは,食料の大量供給こそが国是,国益であるという固い信念を持って世界中の海に漁船を駆り出していましたが,今は違います。魚を獲る人も食べる人も着実に減っていく中,どのような魚の獲り方,売り方,食べ方,そして海の生態系のあり方を次の世代に残していくか,将来に禍根を残すことのないよう我々が考えなければなりません。

図:海をめぐる自然のシステム(海洋生態系)と人間の社会経済システムをつなぐインターフェースとしての漁業。2つのシステムが健全な状態で回ることが大切です(水産研究・教育機構のSH”U”Nプロジェクトの概念図原案を改変)。

 

漁業は陸と海,人と自然のインターフェース

ネガティブなことばかり上に書き綴りましたが,私自身はポジティブな望みを捨てていません。水産資源とそれを取り巻く海洋生態系(自然のシステム),漁獲した水産物を売買し,加工し,生活を営みながら食文化を継承する地域コミュニティー(人間の社会経済システム),この2つのシステムが健全な状態で回るように改善すれば良いのです。漁業はこの両輪をつなぐ重要なインターフェースです。近年サンマが取れなくなったとか,ブリやサワラなどの南方系魚種が北海道や東北沖で獲れるようになってきたなど,我々は漁業を通じて海の生態系の変化を知ることができます。次世代に残すべき,この二つのシステムの望ましい姿はどういうものであるか,生産者だけでなく漁業管理,加工流通に関わる人々や消費者が真剣に考えることが大切です。

サステイナビリティー・サイエンスとしての新しい水産学

今まで水産の研究は,漁獲,水揚げ,加工,流通,販売,それぞれの局面で目先の効率化を追求してきましたが,その結果として2つのシステムとそれをつなぐ水産業が,最適とは言えない状態に陥っているようです。これからの水産科学研究は,海の資源と生態系,地域コミュニティーの社会経済文化,これらを一つのシステムと捉えて全体の最適化を図ることにより,持続可能性(サステイナビリティー)を実現すべきでしょう。

 

生態系に基づく漁業管理(Ecosystem-based Fisheries Management, EBFM)を,欧米からの借り物としてではなく,日本に根付かせることが大切です。私はこれから長崎県周辺においてケーススタディーに取り組み,小さくても着実な成功事例を生み出して改善の糸口をつかみ,情報発信していきたいと考えています。


参考資料

海と水産業の多面的評価〜水産研究の新たな役割と方向性

 

月間海洋2015年8-9月号(Vol 47巻, 8-9号)

東京大学大気海洋研究所共同利用研究集会